263番のバスがターミナルに到着すると、その周辺で待っていた老若男女が乗り口に一斉に押し寄せた。私は一旦その場を離れ、みんなが乗り終わってから省エネモードで乗車する。東エルサレム郊外へ行くバスだけあって、運転手さんも乗客もアラブ人だ。だからイスラエル人は東エルサレムに行くとしてもみんなマイカー。バスは超満員で、ところどころ窓は開いているけれどムワッとしている。
立ったまま30分ほど南東に向かって走ると、バスが少しずつ空いてきた。下りる場所を運転手さんに告げるため、席を少しずつ前に進める。拙いアラビア語で「アブザキ(Abu Zaki)というシャワルマ屋さんで下ろしてください」と言うと、運転手さんが無言で頷いた。この角を曲がると終点のアブディス大学に着いてしまう、と思ったところで運転手さんが私に目配せをして、アブザキを指差した。アラブ人は一見不愛想に見えても優しい。
私は、このアブザキから5分ほど歩いたところにある家の一室を1ヶ月借りていた。パレスチナ人のアラバディ3姉妹が管理していて、私の部屋のフロアには部屋が4つとリビング、ダイニング、キッチン、シャワーとトイレが2つずつあった。
アブディスには留学生や大学の教授、自称ジャーナリストを除き外国人が非常に少ない。その外国人を一手に受け入れているのが、この姉妹だった。特にファドワは異色だった。1948年のナクバ(イスラエル建国のため大量のパレスチナ人が急に土地を追い出され、難民と化した年)以降、パレスチナの家父長制が女性の権利と行動を抑制していることに気付き、1970年代から仲間と共に女性たちの政治活動・抵抗運動参加を促していた。それが社会に良い変化を生んでいた矢先、第一次インティファーダ(パレスチナ人がイスラエルの占領に抵抗して一斉蜂起すること)で生徒を洗脳するテロリストと見なされてイスラエル軍に捕らえられ、軟禁生活や独房生活を強いられて、床に落ちる雨水の音を数えながら正気を保ち、その経験を2000年の女性国際戦犯法廷の公聴会(東京)で語ったという筋金入りのアクティビストだった。見るからに賢そうな顔立ちと、やさしくも、この世の終わりを知っているかのような瞳をしていた。
家の隣には、障害を持つ子どもたちが国中から集まるという施設があった。その先には、はたまた一見無愛想でも実は優しい店長が営む小さな商店。その商店とは反対側に歩くとすぐに、飲食店、八百屋さん、ベーカリー、ナッツ専門店、スーパー、薬局などが立ち並ぶ大通りにぶち当たり、そこを曲がらずに直進すると、突き当たりにアブディス大学が見えてくる。
大学の少し手前で右手の小道を下ると、住宅で遮られていた視界が開けて、20mほど先に分離壁が見えてきた。灰色のコンクリートの塊が緑の斜面を横切って、ぐるっと回って丘の向こう側へ消えていく。自分が小高い丘の上にいるので背が低く見えるけれど、高さはベルリンの壁の2倍で8mくらいある。壁の上部には当然のごとく電流の流れる有刺鉄線と金網が張られており、至るところに監視カメラ。それに抗って壁を乗り越えようとしたり、ドリルで穴を開けたりしようとすれば、生きて戻れないだろう。一部のエリアには遠隔操作で射撃可能な銃も配置されている。悲しみと怒りと虚しさがゴチャ混ぜになったような感情と共に、その壁の向こうに広がる西エルサレムを見やる。人間はクソだ。醜すぎて、愚かすぎて、自分も人間であることが嫌になる。
来た道を引き返し、適当なスーパーに入った。ヘブライ語の商品とアラブ語の商品が半々くらいの割合で並んでいる。お買い得のヨーグルトを見つけて喜んでいたら、レジで財布を忘れたことに気付いた。店員さんに出直すと伝えると、私の後ろにいた青年がクセのない英語で「僕が払う」と言ってきた。私が丁重に断ると「パレスチナ人は困っている人を放っておかない」という一言で、私の時間を止めてしまった。そして、有無を言わせぬ顔つきで代金を支払うと「パレスチナへようこそ」と言って爽やかな笑顔を見せた。
その数日後、アブディスから車で2時間ほど北に走ったところにあるNablus(ナブルス)という街で事件が起きた。ナブルスに住むパレスチナ人の若者3名を“特に危険な武装勢力”として排除するべく、イスラエル国防軍が旧市街に乗り込んだのだ。それも人々が市場に出ている昼間を選んで。複数の戦車からロケット弾を発射して、建物の屋根の上から銃を乱射した。市場にいた百名以上が負傷して、パンを買いに行っていただけの老人や子どもを含む十数名が死亡した。病院で負傷者の手当をしていたナースのもとに手遅れの状態で送られてきた男性が、そのナースの父親だったという話を聞いたときの衝撃は忘れられない。その話をしてくれたアラバディ姉妹の表情も。あの時の感情を何と呼ぶのかは分からないけれど、自分の眉毛が変に曲がって目頭が熱くなり、めまいがするような感覚だった。パレスチナでは、こんなことが毎月、毎週起きている。傷が癒える暇もない。こんな世の中に生まれたら「神だけが私たちを守ってくれる」と思うのも当然だ。
このような襲撃の翌日は必ずのように各地でストライキが起こり、ほとんどの店が夕方か翌朝までシャッターを閉める。そのたびに大学が休校になり、街が閑散として、みんなが家で喪に服す。一見無愛想でも実は優しい店長が営む小さな商店は開いていたが、周りの人の反感を買わないように正面のドアを開け放たずに、ひっそりと営業していた。