エルサレムのゲッセマネの園には、イエスキリストの最期を見守っていたという神聖なオリーブの木の枝を求めてキリスト教徒が列を成す。大きな道路の反対側は城壁に囲まれたエルサレム旧市街。城壁にはゲート(大きな門)がいくつかあって、私は今そのうちの1つ、ライオンズゲートの外側に立っている。そこから真向いのゲッセマネを見ると、その右の斜面にユダヤ教徒の墓地が広がっている。そして私の足元の斜面にはイスラム教徒の墓地がある。3つの宗教が1フレームに収められるユニークな場所だ。
待ち合わせのダマスカスゲートに向かって歩いていると、アラブ人男性の集団が墓地の一角でたむろしている。と、そこへ数人の男性が木製の棺を担いで走ってきた。表情は真剣そのもので、この地は事実上イスラエル兵に管理されているからだろうか、一刻も早く埋葬したいという焦燥感をまとっている。棺には白い布が掛けられているだけだ。
イスラム教、ユダヤ教、キリスト教という3つの宗教が溶け合わずにぶつかり合って大気を震わす。高いビルがなく、空は開けているのにズッシリ重たい。私にとってエルサレムはそんな場所だ。旧市街の細い小道ではイスラム教徒とユダヤ教徒とキリスト教徒がすれ違い、混んでいるときは体同士が接触するので空気がピリッと張り詰める。とにかく目立たないように、さりげなく喧騒の中を歩いてダマスカスゲートに到着すると、すぐにヴィッツェがやってきた。
オランダ出身のヴィッツェは、アラビア語を流暢に話す笑顔の爽やかな青年である。卒業論文に向けてエジプトでリサーチをしていたものの、その対象が“カイロに残存するユダヤ人コミュニティ”だったがために当然ながら現地警察に目を付けられて、四六時中強迫じみた尾行をされるようになり、不本意にも予定より数ヶ月早くエジプトを出ることになった。エジプトのアカバからイスラエルの国境に向かうバスの中で現金が足りなくなり困っているところを私に助けられたのが運の尽き、この23歳の若者は40歳のオバサンと何度か出掛ける羽目になる。
ヴィッツェはリサーチの対象をイスラエルのヤド・ヴァシェム (国立ホロコースト記念館)を始めて訪れる人に変えた。この記念館の存在意義を民族学的な観点から探るため(?)訪問者にインタビューするそうで、私が今日東エルサレムのアブディスから西エルサレムにやってきたのは、他でもない、そのインタビューに協力するためだった。
このリサーチのためにヴィッツェは、イスラム教徒でありながら、記念館に近いエルサレム旧市街のユダヤ人地区(Jewish Quarter)にあるアパートの一室を借りていた。一度覗かせてもらったけれど、向かいのビルの壁には反パレスチナ勢力の顔写真が貼ってあるわ、ベランダには家主が掲げたイスラエルの国旗がたなびいているわで、かなり複雑な心境になった。この国旗が何かの拍子で落ちて2人で静かに喜んだのは、ここだけの秘密。
ユダヤ人地区は未知の世界。道路を行き交う人々が早歩きで足元ばかり見ているように見えるのは私の先入観の賜物だろうか。通りがかったドアからユダヤ人の子供たちがゾロゾロ出てくる。その見た目以上に重たいドアを親切のつもりで押さえていると、大人のユダヤ人が来て何も言わずに私たちを追い払った。この地区では私の常識がことごとく通用しない。無数のルールが大気中に飛び交っているけれど、私は無知だ。ユダヤ教では何が善で何が悪とされるのかも、ユダヤ人の気性も知らずに来たので手探り状態。
ユダヤ人地区とイスラム教地区の境目にある“嘆きの壁”では、世界中から集まった何百人ものユダヤ教徒が柵を挟んで男女に分かれ、壁に向かって一心不乱に祈りを捧げる。この何の変哲もない壁が多くの争いを生み出した。それでもまだ人間は、この壁を神聖なものとして崇め続ける。
イスラム教徒のヴィッツェは当然、離れたところで待っていた。彼がイスラム教徒になったのは、ユトレヒト大学で宗教学を学ぶ過程でそうしたいと思ったからだ。両親は否定こそしなかったものの受け入れたくないのか、彼がイスラム教徒であることをもはや笑い話にしているという。仮に彼がキリスト教徒や仏教徒になると言っても、両親は同じ反応をしたのだろうか。
イスラム教は医療上の理由なくして体に手を加えることを“ハラーム”として禁止しているため、イスラム教徒でタトゥーやピアスをしている人は性別を問わず非常に少ない(ただし、女性のピアスはOKという説や男性でも鼻か耳のピアスならOKという説もある)。それでも彼は、よほど大事なものなのか、両耳にピアスをしていた。彼がもともと“外国人”だからかもしれないけれど、エジプトやパレスチナで見ていた限り、アラブ諸国で生まれ育った生粋のイスラム教徒に彼が「イスラム教徒です」と言ってもピアスを咎められることはなく、むしろ「おお、マイブラザー! 兄弟よ!」と両手を広げて歓迎される。逆に、アル・アクサモスクの警備をしているイスラエル兵に宗教を問われ、正直に「イスラム教徒です」と答えたときは、言われた通りにコーランの一節を暗唱しても「そのピアスで冗談はよせ!」と追い返された。
ここでイスラム教徒は心が広いと捉えるか、いい加減と捉えるかはあなた次第。このイスラエル兵をいじわると捉えるか、イスラム教にちゃんと敬意を払うやつと捉えるかもあなた次第。
さて、ベンチで休憩していると、初老の男性が重たそうな簡易テーブルを抱えて階段をのぼってきた。キッパーを被っているのでユダヤ人と思われる。いつもなら反射的に手を貸すところだが、頭の中で先ほどのドアの件がリプレイされる。ユダヤ教の社会では女性が男性に手を貸してもいいのだろうか。こちらの善が彼にとっては悪かもしれない。私は小さな声でヴィッツェに聞いた。「この場合は助けていいのかな」「俺も同じことを考えてるよ…」。そうこうしているうちに男性が通り過ぎた。
キッパーの威力は絶大である。あのおじいさんの頭にそれが乗っかっているのを見て、私は手を貸すのを躊躇い、見て見ぬふりをしたわけだから。たった1枚の布切れに翻弄された自分に愕然とする。タキーヤを被っている男性やヒジャーブを着けている女性を見て怖がる人と何ら変わりない。
そこから私たちは、ベタに苦難の道(Via Dolorosa)を通って聖墳墓教会(Church of the Holy Sepulchre)へ向かった。苦難の道は、死刑の宣告を受けたイエス=キリストが十字架を背負いながらゴルゴダの丘に向かって歩いたルートとされていて、途中に14ヶ所の“見どころ”がある。この見どころとは、イエスが死刑を宣告された場所、イエスが十字架をかつがされた場所、イエスが倒れ込んだ場所(計3回)、ヴェロニカという女性がイエスの顔を拭いた場所、サイモンという男性がイエスに手を貸した場所、イエスの衣類が剥ぎ取られた場所、イエスが磔にされた場所、イエスが息を引き取った場所、イエスの遺体が十字架から下ろされた場所などである。
その後、聖墳墓教会で石のベッドに寝かされたイエスの遺体には埋葬に備えて油が注がれたらしく、そのベッドの脇で今度は敬虔なキリスト教徒が一心不乱に祈っていた。持参したTシャツやヘアゴムやコットンでベッドを拭く人もいれば、おでこをベッドに付けたまましばらく起き上がらない人もいる。
ダメだ、真面目に考えようとすればするほど目が回る。
ユダヤ教徒の嘆きの壁とイスラム教徒のアル・アクサモスクは隣同士、というより同じ敷地内。そしてキリスト教徒の聖墳墓教会は、その2つから距離にして700m、徒歩で10分程度しか離れていない。この3つの聖地が城壁に囲まれて、ひとまとめにされている。もはや食うか食われるかのパックマンの世界である。
エルサレムよ、教えておくれ。こんな世界が現実にあっていいのか?
旧市街を出てヤド・ヴァシェム行きのトラムに乗ると、また別の混乱が待っていた。私たちの横にライフルを持った若い男性のイスラエル兵が立っていて、やたらフレンドリーな視線を送ってくるのだ。乗客はたくさんいるし、観光客も私たちだけじゃないのに一体なぜ。電車の中で地元の人とおしゃべりなんて、そんな楽しいことはない。でも、今回は相手が相手。無理に話す必要がないのなら、だんまりを決め込ませていただきたい。ところが、この兵士は「どこから来たの?」と気さくに話しかけてきた。ヘブライ語ではなく英語だから分からないフリもできない。完全に予想外の展開だ。
ヴィッツェは23歳の割に超がつくほど落ち着いている。話し上手である以上に聴き上手で、偏見が非常に少ない。だから私は出会って間もないヴィッツェに対し、この人は不用意な発言をしないという全幅の信頼を寄せていた。彼がいつもより少し低い声のトーンで「僕はオランダで、彼女は日本です」と答えると、兵士は「そうなんだ、いいね」と言った。車内の空気に期待と不安が混じっている。妙に静かなのは、周りの乗客が耳をそばだてているからだろう。
すぐに終わると思った会話が長引き、この難局をヴィッツェだけに任せておくのが申し訳なくなってきた。できることなら相手にひたすら話していただき、こちらは極力黙っていたい。小さな脳みそで考えた結果、出てきたのは「あなたの仕事はシフト制なの? ちゃんと休みはもらえるの?」という、小学生でも思い付きそうな質問だった。
「シフト制ではなくて、2週間勤務して数日休むというシステムなんだ」と兵士が話し出す。「市内に配置されることもあれば、海に出て警備にあたることもある」。ああ、警備という名のガザ砲撃の準備ですね、というコメントは差し控え「へえ~」とか「大変なのね~」とか言いながら次の質問を考えていると、兵士が突拍子もないことを聞いてきた。
「ねえ、電車の中に銃を持った兵士がいることについて、どう思う?」
車内はもはや山中の寺院のように静かである。
この人は最初からこれが聞きたかったのかもしれない。そう思っていると、ヴィッツェが少し声のトーンを和らげて、この質問に質問で返してみせた。
「君は何歳?」
「21」
「そうか・・・21歳で銃を持つというのは、誰にとっても少し早すぎるかもしれないね」
会話の焦点を「彼」から彼の「年齢」に移したのは素晴らしい機転だったが、兵士の反応を待つ間、薄い氷の上を歩いているような緊張感が車内を包む。
銃の存在を正当化してくるかと思いきや、兵士は頷き「同感」と言って微笑んだ。
そのタイミングでドアが開いて兵士が下りた。入れ違いに何も知らない乗客が乗り込んできて車内には当初の喧騒が戻ったけれど、私には1つ気に入らないことがあった。それは、あの兵士が私たちのどちらか、あるいは両方がイスラム教徒である可能性を一切考えていなかったこと。少しでも考えていたら、あんな質問できないでしょう。
そんな私の悶々は、車内に響く甲高いアジア系女性の声によって掻き消された。
「ゴッド・ブレス・ユー! エルサレムに神のご加護を! 私たちキリスト教徒はエルサレムのユダヤ教徒に敬意を表します! ゴッド・ブレス・ユー!」
エルサレムよ、教えておくれ。どうしてここではホッと一息つくことさえままならない?
その後、ヤド・ヴァシェムの見学とインタビューを終え、いつも通り263番のバスで帰路についた。右側の真ん中あたりに座っていると、乗客が残り少なくなったところでバックミラーをちょくちょく覗く運転手さんと目が合って手招きされた。何かしたかな? 何にせよ今日はもうお腹いっぱいなので、お手柔らかにお願いしたいと思いながら近づくと「アブザキで下りた子だろう?」と言われてハッとした。初日の一見不愛想な運転手さん! しかも今日は、わずかに微笑んでくれている。
私は気付かなかったのに気付いてくれた。私を覚えていてくれて、ちゃんと声までかけてくれた。その事実が無性に嬉しい。長い1日の終わりに最高のプレゼント。やっぱり私は分離壁の向こう側より、こっち側にいたいと思う。本当は選びたくないけれど、選ばなければならない日が終わるまでは、この人たちの想いと一緒にいたい。