起伏の激しいウェー島では、海沿いの丘に歩行者用の石畳が敷かれている。そして、自分のダイブショップとバンガローの間の丘の斜面では、ヤギが何頭か放し飼いにされていた。
ウェー島で暮らし始めたばかりの頃は、その斜面を少し下ったところでファティマという女性が経営している木造のバンガローを借りていた。他のバンガローより安いぶん簡素な造りで、鍵は木の板1枚。トイレの汚物は浴槽に溜めてある水をバケツで汲んで流す。その浴槽には死んだゴキブリが浮いていて、ベッドの上では毎晩ネズミが木を齧る。満潮になると数メートル下まで押し寄せてくる海水に、いつ持っていかれてもおかしくないくらいオンボロだった。
その晩はいつも通り夜11時頃ベッドに入り、蚊帳の中で熟睡していた。ところが深夜2時を過ぎた頃、間近で女性の悲鳴が聞こえた。しかも、「きゃっ」とかいうカワイイものではなくて、「ひゃああああああぁぁぁぁぁ…」という断末魔のような叫びだった。窃盗ならまだしも強姦や殺人だったら笑えない。今日、隣のバンガローに欧米人の若い女の子2人組がチェックインしていたけれど、声を掛けたほうがいいだろうか。
でも、波の音と虫の声しかしないウェー島の静かな夜に物音を立てれば、犯人に自分の存在を気付かれるかもしれない。とはいえ、このまま眠りにつけるわけもなく、私はそ~っとベッドを降りて、木を軋ませないよう抜き足差し足でドアの内側に移動した。
外では物音ひとつしない。今のうちに出て行って、彼女たちの無事を確認するべきか一度は悩んでみたものの、怖い気持ちが圧勝した。ドアの内側に座り込んで頼りない鍵を見上げる。私は右手に防災用ライトを握り、ドアに自分の体重をかけて侵入者を迎え撃つためのイメトレを開始した。でも、どこからかキシッという音が聞こえるたびに心臓が止まりそうになる。
ふと、大学時代のことを思い出した。ひとり暮らしの同級生がストーカー被害に遭って、警察が見回りを強化すると言った日の夜、彼女の玄関のドアに付いている郵便受けが突然「バン!」という音を立てた。誰かが何かを放り込んだに違いない。私たちは恐怖におののき、しばらく身動きが取れなかった。その後、勇気を振り絞って郵便受けの中を覗いてみると「今日は不審者いませんでした」という警察からのメモが1枚。あれには笑った。今回もそんなオチで終わりたい。
30分ほど経っただろうか。このままでは埒が明かないので、スマホの明かりが床板の隙間から漏れないようにタオルで自分の頭を覆い、ダメもとでユディに電話してみた。でも、こんな時間に出てもらえるわけはなく、結局そのまま朝まで4時間、私はドアを背にして座り続けた。
朝6時。少し離れたバンガローの宿泊客も深夜の断末魔を聞いたと言うが、隣のバンガローはひっそり静まり返っている。ノックしようかとも思ったけれど、ひとまずダイブショップに駆け込んで、ローカルスタッフに同行を願うことにした。
事情を話すと、彼らは一瞬の間を置いて一斉に笑い出し、それは「ヤギの鳴き声」だと言い張った。そんなわけないでしょう、あんな声で鳴くヤギがどこにいる? こちらの疑念と不快感をよそに、スタッフたちはクスクスしながら私をヤギの住処へ連行した。そして、そこの主人が木の棒でヤギを背後から突いた瞬間、驚いたヤギが「ひゃああああああぁぁぁぁぁ…」と一鳴き。これには耳を疑った。
納得がいくようないかないような気持ちでいると、隣のバンガローの2人組が何事もなかったのように歩いてきた。結局全部、私の早とちりだったというわけだ。寿命が数年縮んだような気がするけれど、とにかく2人が無事でよかった。ホッと一息ついていると、スタッフが「それより早く自分の顔を見てきたほうがいい」と言ってまた笑う。え、何? 一体何なの?
恐る恐る鏡の中を覗いてみると、そこには両目のまぶたを(彼らいわく)アリに噛まれた醜い女の顔があった。いつの間に噛まれたのか、失恋して三日三晩泣き通した高校生の目みたいに腫れている。あのヤギに罪はないけれど、ちょっとだけ恨めしく思ってしまった。